<覚えていること>と<忘れたこと>@下水処理場

 

人間は日々いろいろな経験をするが、その大半を忘れていく。

昨日一日を思い出してみても、「やったこと」を思い出すのであって、

「何を見て、どんな話をして、何をしたのか」まで

事細かには覚えていない。

どれくらい覚えているのか分からないが、感覚的には90%くらい忘れていくのではないだろうか。

 

 

忘れたら、無かったことと同じだ。

仮に前日に90分授業を受けたところで、その内容を全て忘れてしまったら、

その授業は無かったも同然だ。

 

 

<忘れる>というのは人間にとって重要な能力だ。

だからこそ、逆に「何を覚えているのか」はとても重要だろう。

ほとんど多くのことを忘れていく中で、

<忘れないで残っていること>というのはきっと

自分が価値をもって見たり、

とても印象に残ったり、

驚いたり、喜んだりした

そういうものだということになる。

 

 

 

 

小学生のころ

 

最近ふと、小学2~3年生の頃のことを思い出した。

 

 

恐らく小学3年生の時だったような曖昧な記憶がある。

学校の課外活動として「下水処理場」に行くことがあった。

 

 

実際「下水処理場に行った」という事実は覚えているが、「内容」は全く覚えていない。

つまり「下水処理場がどんな場所で、何があって、係りの人からどんな話を聞いたのか」は全く覚えていない。(‘Д’)

 

 

あれからもう20年以上経つが、未だに下水処理場に行ったことは無いし、今後も行く予定はないので、

あれは人生で一度切りの貴重な経験であっただろうが、

申し訳ないほどに<全く>覚えていない。(‘Д’)

 

 

ただ<唯一>覚えていることがあった。

それは実際、下水処理場に行った日ではなく、その課外活動に行く前日に、先生から説明を受けていた時だ。

(つまり下水処理場でのことは本当に何も覚えていないということ。汗)

 

 

前日に先生から明日行く下水処理場の説明を聞いていた。

下水の処理の仕方などを恐らく聞いていたと思うが、その内容は覚えていない。

自分が覚えているのは、その話の最後の方に、先生がこういう内容のことを言ったことだけだ。

 

 

先生「明日下水処理場に行ったら、絶対に『臭ーい!』ということは言ってはダメですよ。

そこで働いている人たちに失礼ですよね」

 

 

それを聞いて「ああ、そういうことがあるのか。でも確かにそうだ」と思った記憶がある。

逆に言えば「その記憶しかない」

そして下水処理場に行った時、確かに「臭かった」という記憶はある。笑

「ああ、確かに臭いな。でもそういうのは言っちゃだめだ」と子供ながらに言われたことを守っていた。

 

 

 

下水処理の方法も、

下水処理場の様子も、

係りの人の話も、

今はなーんにも覚えていないが、

生きていくために非常に重要なことは

覚えていた。

 

 

ある意味、<人生の下水処理方法>を教えてくれた機会だったとも言えるかもしれない。

人生「何を覚えているのか」が重要だ。

 

 

 

もしこのような常識を知らない人がいたら、

<下水処理場>に連れて行ってみることをお勧めしたい。

 

 

言葉以外の言葉~おじゃったもんせ~

 

最近引っ越し後でバタバタしていたが、ようやく落ち着いてきた。

その中であった出来事を一つ。

 

 

おじゃったもんせー

 

九州に引っ越してきて、鹿児島の知り合いから

「おじゃったもんせ~」

というLINEが来た。

 

 

全く聞いたことがない言葉だったが、とりあえず状況と会話の流れから

「いらっしゃいませ~」「ようこそ~」「おいでやす~」

的な意味であろうことは分かった。

(実際調べてみると「おじゃったもんせ」は鹿児島弁で「ようこそいらっしゃいました」という意味だそう)

 

 

そこで不思議だったのが、

全く聞いたことがない単語なのに、意味が分かったということ。

この状況と流れと、発言の雰囲気から「ふざけんな、帰れ」とは言われていないことは分かった。

 

 

恐らく

「タッカラプト、ポッポルンガ、プピリットパロ!」

と送られてきても

「ああ、ナメック語で、『いらっしゃい、ようこそ!』という意味だろうな」

と思ったと思う。

(ちなみに「タッカラプト、ポッポルンガ、プピリットパロ!」はナメック語で「いでよ神龍」なのでお間違えなく)

 

 

全く聞いたことがない単語なのに、意味が通じていることが不思議だった。

この時<言葉>というものをもう一度考えた。

 

 

 

ボディランゲージ

 

私たちは実際様々なものを用いてコミュニケーションをとっている。

<言葉>を多用するが、その中でも

「話す表情」「抑揚」「強弱」「声の大小」「ジェスチャー」「視線」など様々な要素がある。

 

 

コミュニケーションの中で単純に「言葉」が占める割合は全体の2割だという研究結果もある。

イメージとしては、絵文字やなんの記号もつけないで、ただ「ありがとう」とメールを送るようなものだ。

同じ「ありがとう」でも、表情やジェスチャー、言い方によって全然違う意味になる。

もし知り合いから一行「ありがとう」というLINEやメールが来たら、到底感謝されているようには思えない。

むしろ「…怒ってる??」と返したくなる。笑

 

 

人は多くのものを通して自分の意志や思いを伝えている。

「おじゃったもんせー」も、言葉としては全く知らなかったが、意味は通じたように、

私たちがコミュニケーションをとる上で、「言葉」の占める割合は多くはないようだ。

 

 

しかし「いらっしゃい」のような簡単なことは、それほど問題はないが、

もっと深い自分の考えや抽象的な概念を伝えるとなると、どうしても<言葉>が必要になる。

外国語で外国人と話す時も、道案内などはできても、その人の人生観や深いことについて話すためには、どうしても<言葉>もまた必要になってくる。

 

 

 

聖書には以下のように書かれている。

「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。

馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。」

ヤコブの手紙3章2~4節

 

 

「言葉の上であやまちのない人は完全な人だ」という一文が非常に印象的だ。

 

 

<言葉>にも気を付け、

また<言葉以外の言葉>にもまた気を付け、

自分を制することができる人になりたいものだ。

 

 

 

 

「な、なに??一体どうやって??」@GU

 

つい先日の出来事。

それほど教訓的な内容でもないが、面白かったので書いてみる。笑

(^◇^)

 

 

○Uにて

 

ファーストリテイリング系列の「○U」で買い物をしていた時のこと。

レジに行ってみると、なんと「セルフレジ」なるものがあった。

それが以下。

 

 

 

「セルフレジ」だけならそれほど驚くことではないが、興味を引いたのは商品の読み取り方。

下の段の四角い空間に、買いたい商品をとにかく全部入れる。(ハンガーは外す)

「え?これでどうやって商品を読み取るの??」と思いながら、とにかく指示通りに全部入れた。

中の空間を見てみたが、ただ白い壁があるだけだった。

(写真では見えないが、天井にも何もついていない)

…そして扉を閉めるだけ。

すると上の画面に、入れた商品の目録が表示された!!

しかも一瞬で!

 

 

 

…な、なに!Σ(・□・;)

…一体どうやって!??Σ(・□・;)

 

 

 

 

ここで完全に理系と文系に分かれるが、

 

【文系の反応】

「わー、すごい!便利!」(^◇^)

 

【理系の反応】

「なに!?一体どういう仕組みになっているんだ!??」Σ(・□・;)

 

 

自分は完全に後者の反応。笑

みなさんはどちらだろうか?

 

 

 

調べてみると…

 

こういうのを放っておけないタイプなので、その場で少し考える。( ˘•ω•˘ )

このように「なんでだろう?どうなっているんだろう?」と考えることは大事なことだと思っている。

体質になると、すでに趣味だが。笑

(そういえば先生も壁を登るバッタの足を観察していたなと思う)

 

 

最初、商品を入れる段階で

「どうやってタグのバーコードを読み取るんだろう?

入れた後ワサワサ動かすのか?

そんな非効率的なことするかな?」

とか考えながら入れていたが、

あのスピーディーな読み取りっぷりを見るに、そうではないらしい。

 

 

10秒ほど考えて、もう可能性としては「磁気」しかないという結論に至る。

磁気を読みとるなら、多少間に障害物があっても大丈夫だ。

それで商品についているタグを見てみた。

よーく見てみると、ものすごく薄い黒いものが入っている。

最初見ると「裏側に印刷されているものが透けて見えているのかな」と思うが、「磁気に違いない」と思って探していたので気が付いた。

タグの表面は以下のようになっている。

 

 

これを明かりに透かして見ると以下の写真。

 

 

 

中に「ナスカの地上絵みたいな黒いもの」が入っているのが見える。

裏面の絵が透けているのではない。

 

 

 

「あー、この磁気の形で商品を読み取るんだな。

と自己解決して、満足。(‘ω’)ノ

タグが若干コスト高になるはずだが、それを上回る人件費削減になるとの経営側の判断なのだろう。

 

 

「なるほどなー。面白いアイデアだなー」と思いながら、店を後にする。

 

 

 

GUショップのセルフレジの前で、

ちょっと立ち止まって何かを考えていたり、

タグを注視している人がいたら、

99%その人は【理系の人】だと思って間違いない。

 

 

 

もし「どうやって読み取っているんだろう?」というような顔をしていたら、

是非声をかけて、教えてあげて頂きたい。

 

 

 

 

 

【詩】わたしを作るもの

 

 

【わたしを作るもの】 

 

 

身体中の無数にある細胞の中から

一つを選び、

その細胞を構成する無数の炭素原子の中から

一つを選び、

まず、彼に名前を聞いてみた。

 

 

すると彼は、

「名前? 名前とは何ですか?」と言った。

「他の炭素原子と区別するための記号ですよ」

と私が言うと、

「よく分かりませんが、多分持っていません。

どうして区別する必要があるのですか?

僕は僕で、僕はあなたです」

 

 

その答えが気に入ったので、私はクスッと笑って言った。

「あなたは私のところに来る以前、どこにいたのですか?」

 

 

彼は答えた。

「ある時はりんごの木でした。

ある時はにわとりでした。

またある時は空中を飛んでいました。

その時の友達は酸素原子二人だけでした。

ちょっと寂しかったけど、僕らはすごく仲が良かったのです。

ある時はクジラでした。

ある時は山の頂上にいました。

ある時は花崗岩だったし、ある時はいもむしだった時もあります。

一番輝いていたのは、ダイヤモンドだった時です。

一番輝いていなかったのは、多分灰だった時だと思います。

きゅうりだったり、まつぼっくりだったり、レンガだったり、

羊だったり、プロパンガスだったり、ひまわりだったり、

もう数え切れません」

 

 

「一番始めはどこにいたのですか?」

「よく覚えていませんが、みんな一緒でした」

「みんなって?」

「みんなみんなです」

 

 

私は目を閉じて空想してみる。

 

 

私はある時、りんごの木で、

またある時は空気で、

またある時はクジラで、山の頂上にいて、花崗岩で、きゅうりだったり、

ダイヤモンドだったり、ひまわりだったりしたのだ。

 

 

他の無数にある炭素原子にも聞いてみようかとも思ったけれど、

やめておくことにした。

 

 

ああ、どうやら

私は地球でできているらしいことが分かった。

 

 

 

2008/12/05

ある小さな足台

 

もうすぐ引っ越しをすることになった。

(最近その準備でバタバタしていたので、若干更新が滞っていたと言い訳。汗)

 

 

それで先々週6月11日(日)のサッカーは、普段一緒にサッカーをやっているメンバーとは最後のサッカーになるかもしれないという状況だった。

そこであった出来事を一つ書いておきたい。

 

 

 

 

グランドの水撒き

 

そのグランドはいつも使っている場所で、基本芝生が生えている。

しかしすごく管理されている場所ではないので、グランドの中央付近は草がなく、土のグランドになっている。

そしてそのあたりの「砂埃」が毎回すごい。(;´・ω・)

おかげで毎回シューズやユニフォームはドロドロに。。。

 

 

そういうこともあって、ある一人のメンバーが

「試合前にグランドに水撒きをしよう!」と思い立った。

グランドに神様を迎えてサッカーをするとしたら、水撒きをしてしっかり準備すべきだろうという心からの行ないだった。

 

 

しかしホースや蛇口があるわけではないので、

500ml、1lのペットボトルを集め、さらにグランドの事務所に小さいバケツを借りて、

水道とグランドを何往復もするという<超地道な>作業になった。

かなり日照りが強かったので、水を撒いても、一往復すると結構乾いているという状況。

5~6人で、10往復くらいしても、全然進まなかった。(-_-;)

 

 

ずっとやっていても試合ができないので、ある程度のところで断念した。。。

 

 

 

 

試合中に。。。

 

水撒きをいったん終わらせて、試合を開始した。

試合をしてみると、やはり水撒き効果もあまりなく、砂埃はめっちゃ舞っている。(;´・ω・)

しかし試合をしているので、そんなこと気にせず、みんな一生懸命走っていた。

 

 

すると、試合の終盤30分くらいになると、パラパラと雨が降り始めた。

天気予報では今日は晴れになっていたはずなのに。

(少なくとも少し前までは日照りがきついほどに晴れていたのに…)

 

 

試合を続行していると、雨は少し強くなったが、試合ができなくなるほどではなかった。

むしろとても暑かったので気持ちがいいくらいの雨だった。

 

 

そうしていて、試合が終了。

 

 

みんなが集まって最後のミーティングをしようとした時には、またほとんど気にならない小雨になっていた。

 

 

一緒に集まっていた小1の子が「あ!あれ見て!」と空を指さすと、

向こうに雲の切れ間から夕陽が漏れていて、とてもきれいな線になっているのが見えた。

 

 

 

気が付いてみると。。。

 

ふと気が付いてみると、

 

 

グランドに水が撒かれている!!Σ(・□・;)

 

 

しかもすごく<適度>に!Σ(・□・;)

 

 

天気予報では雨じゃなかったのに、

直前までものすごく晴れていたのに、

ちょうどいい感じのパラパラ雨が降り、

さらに最後のミーティングの時にはほとんど降っておらず、

試合が終わって、みんなで写真を撮る時には雨がちゃんと止んでいた。

タイミングが良すぎる!驚

 

 

 

その時、以下の箴言を思い出さざるを得なかった。

 

1.神様に任せればどうしてうまくいくのか悟る人だけが、喜んで絶対に任せる。

2.<神様に任せなかった人>は旱魃(かんばつ)に雨が降らないから大金をかけて人手を動員して農場の穀物と山の木に水をやった。
<神様に任せた人>はお金をかけずに願い求めた。翌日雨が降った。
神様に任せなかったことと任せたこととはこれと同じだ。

3.もちろん神様に任せつつ自分の責任分担も果たさなければならない。しかし必ず神様に任せて、自分も責任分担を果たさなければならない。
~鄭明析牧師の明け方の箴言~

 

(※この箴言に関しては以下の記事でも書いたことがあるので参考に。この記事と一緒に読むと理解が深まるかと。「<自分の責任>と<神様に任せること>」)

 

 

 

まさにこれ!Σ(・□・;)

 

 

 

 

考えてみると、

一人のメンバーの

「グランドに神様を迎えてサッカーをするとしたら、水撒きをしてしっかり準備すべきだろう」

という心からの行ないが、天の心に叶ったのだと感じた。

神様を迎える心でサッカーをするから、

神様が共にして下さって、

自分たちができなかった部分まで助けて下さったのだなと。

 

 

 

メンバーの<心>と<小さい実践>が

<小さい足台>となって、

天が働かれたのを感じた。

 

 

 

 

日記で見た<御言葉を聞く前後の変化>

 

自分は過去の記憶があまりない。

高校三年間通ったけれど、どう考えても3年分の記憶はない。断片的にパラパラ記憶があるだけだ。

他の人と比較することはできないが、小中高と総合して考えてみても、恐らくびっくりするぐらい無い。

 

 

当時大学生になろうとしていた自分は、

それがとてももったいないように思えて、

また自分が歩んできた道が消えてしまうように思えた。

それで大学に入学した当日から「日記」をつけるようになった。

 

 

継続力は割とある方なので、大学1年~3年生まで続けた。

3年間続けたので、続けていくことはできたが、一度「意図的に」日記をつけるのをやめた。

そして再び2~3年後に日記をつけるようになった。

二回目に始めて以来、今まで5年間ずっと続けている。

 

 

1回目に日記をつけ始めた理由と

2回目に日記をつけ始めた理由は、全然違う。

 

 

 

御言葉を聞いて変わったこと

 

自分は大学2年の終わり、3年の頭に御言葉に出会った。

そのため、御言葉を聞く前の様子と、聞いた後の様子が日記に残っている。

 

 

いつかパラパラと日記を見返していた時、

御言葉を聞く前と聞いた後の日記に、違いがあり過ぎて面白かった。( ´艸`)

 

 

正直、同じ人間が書いているとは思えない。笑

もちろん口調や書き方などは同じだが、書いてある内容、文字のきれいさなど、全然違う。

 

 

 

 

その中でも一番違うなと感じたのは、

一言で言うと<感謝>だった。

 

 

 

御言葉を聞く前と、聞いた後で、

<感謝>の内容と数が圧倒的に違う。Σ(・□・;)

 

 

 

「神様、感謝します!!」とか

「こういうことがあって感謝だ」とか

「誰々がこうしてくれて感謝だ」など

<感謝する内容>がとても増えていることに気が付いた。

いや、気が付くというほど注意してみなくても、一目瞭然だった。

 

 

 

実際にその日記を全部見て頂ければ一目瞭然に分かるだろうが、

それもできないのが非常に残念。(+_+)

 

 

 

 

 

<感謝>が増えると同時に、逆になくなっていたのが<否定的な言葉>だった。

もともと否定的な言葉はあまり使わないタイプではあったが、

どちらかというと自虐的な、皮肉的な言葉はパラパラ見受けられた。

しかしそれも御言葉を聞いた後にはパッタリなくなっていた。

 

 

御言葉を聞いて、

自分がどれだけ愛されているのか、

自分がどれだけ貴重な時に生きているのか、

自分がどれだけ幸せなのか、

自分がどれだけ助けられてきたのか、

を悟るようになったからだった。

 

 

これを本当にわかったら、

<感謝>が増えるしかないのではないだろうか。

 

 

 

日記を一度やめた理由

 

3年間続けた日記を一度やめた理由は二つある。

 

一つ、御言葉を聞いて、たくさん活動するようになり、たくさん経緯ができて、毎日書ききれないほどになったから。

もともとそんなにアクティブではなかったタイプの人間が、御言葉を聞いてから、すごくアクティブに活動するようになった。

すると天との経緯もたくさん生まれて、日記に書くのが大変なくらいになった。

基本的に、一日にB5のノート1枚を書くようにしていたが、B5ノート1枚には収まらなくなってしまった。

そこに時間を投資するよりは、もっと自分に投資した方がよいのではないかと思った。

 

 

 

二つ、御言葉を聞いて「過去は無くならない」ということが分かったから。

自分の人生の意味が分かったから、虚しさがなくなったから。

 

 

もともと日記を始めた理由が解決されたから、ということだった。

 

 

今日記をつけているが、それはまた少し違う意味あいがある。

 

 

いずれにしても、日記を通して

「ああ、本当に鄭明析先生が御言葉を通して、自分を変化させて下さったんだな」

と感じる他なかったし、

先生に対して感謝しかなかった。

 

 

 

別人のように喜んで書かれている日記を見ると、

書いた本人が見ても、ほほえましく、また若干恥ずかしい。笑

 

 

人生の中に<感謝>が満ちてこそ、幸せな人生だと言えるだろう。

 

 

 

御言葉で変化させて下さったことに、心より感謝して、

このブログもまた、

<感謝>の満ちるブログにしていきたい。

 

 

 

 

どちらが<異常>なのか?

 

正確にいつだったかは覚えていないが、恐らく7~8年前のこと。

自分がまだ大学生の時。

 

 

その日いつものように大学から帰ってきて、駅から自宅まで自転車で走っていた。

 

 

すると向こうから同じく自転車で走ってきた男性とすれ違った。

 

 

すれ違う瞬間にその人を見てみると、ちょっと変な感じでニヤニヤ笑っていた。

 

 

それを見て瞬間「あ、この人は障害のある人なんだな」と思った。

(そういう人は大体見れば雰囲気やしぐさで分かるだろう。)

特に「思う」というほど思っていなかったが、なんともなしに通り過ぎた。

 

 

しかしその瞬間

「あれ?自分はどうしてあの人は障害のある人だと判断したのだろう?」

と考えた。

 

 

 

 

 

考えてみると、

あの人は少し笑いながら自転車に乗って走っていただけだ。

それのどこがいけないのか?

それのどこが変なのか?

 

 

(もちろん普通に爽やかな笑顔で走っていたら、

「ああ、なんていい笑顔で自転車に乗る人なんだ」(^◇^)

で終わったかもしれないが。)

 

 

その時、

「そういうお前はどうなんだ」と自分を振り返る。

自分は笑うこともなく、真顔で(ある意味ブスっとした顔で)、自転車をこいでいる。

 

 

それならば、多少変な感じだとしても、笑いながら自転車をこいでいるあの人の方がよいのではないか??

むしろ笑いもしないで、ブスっとした顔で自転車をこいでいる自分の方が<異常>なのではないか?

と思った。

 

 

聖書には以下のように書かれている。

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

テサロニケ人への第一の手紙5章16~18節

 

 

その人が「喜んでいた」かどうかは分からないが、とりあえず「不平不満」は言っていなかった

 

 

下手すると神様に「あなたも私から見れば異常だ」と言われてしまうかもしれない。

 

 

人のことをどういう言う前に、

神様の前で、御言葉に照らし合わせてみた時に、自分の行動はどうなのか、

いつも振り返ってみるべきだということを悟るようになった。

 

 

 

「半径1の球」を分解して、再び組み立てて「半径2の球」を作れるか?

 

日常で数学の話は<全く>しないので、ブログには書いてみる。笑

 

 

バナッハ・タルスキーの定理

 

タイトルの通り、

Q.「半径1の球」を分解して、再び組み立てて「半径2の球」を作れるか?(´・ω・`)

と問われたら、何と答えるだろうか?

 

 

 

「何馬鹿なこと言ってんの?できる訳ないでしょ?」と言われると思うが、

実は以下のような数学の定理がある。

(厳密性はおいておいて、すごく簡単に書いてみた)

 

 

 

 

 

数学嫌いで拒否反応が起こりそうな人のために、要するに文章で言うと、

「半径1の球をm個に分解する。半径2の球もm個に分解する。

そしてそれぞれ分解したm個が、それぞれ全部合同になっている」

という話。

 

 

これはつまり

「半径1の球」を分解して、再び組み立てて「半径2の球」を作れる

ということを意味している。

 

 

もっと極端にするなら

「サッカーボールを分解して、再び組み立てて、地球にできる」

ということを意味している。

 

 

これは「バナッハタルスキーの定理」と言って、数学的にも証明されている定理だ。

興味ある方はネットで調べてもらえればすぐに出てくる。

 

 

 

 

どういうこと??

 

もちろん実際問題としてそんなことは不可能だ。( ゚Д゚)

 

 

しかしこの定理自体は数学的に正しい。(´・ω・`)

 

 

どこが問題なのかというと、

「半径1の球をm個に分解した一個一個の成分X1,…,Xm」たちだ。

m個という有限な個数だが、実際

「X1,…,Xmたちには体積を定義できない」

ということ。

 

 

つまり体積を定義できるようなかたちで、半径1の球をうまく分解して、半径2の球にすることはできないということ。

 

 

実際にどういう成分になるのかはわからないが、ものすごく変な形になる。

(形というよりは、恐らくすごく稠密なスカスカの集合みたいになる)

 

 

 

 

考えてみるべき点

 

この定理から考えてみるべき点はいろいろあるが、その中の一つとしては

 

「体積」という日常では当たり前の概念も、厳密に定義しようとしたら難しい

ということ。

 

 

もちろん日常生活では「全く」困ることはないが、

本当の意味で厳密性を追求しようとすると、簡単な概念ではないし、

曖昧に、適当に「こんな感じっしょ」(‘ω’)ノ と定義してしまうと

このようなパラドックス的なこともたくさん起こってくる。

 

 

 

実は私たちはこういうような「あいまいな定義」をたくさんして生きている。( ˘•ω•˘ )

 

 

 

たとえば「人を殺してはいけない」ということ自体は、

①法律で定められているし

②良心的にもダメそうだから

だめそうだということはわかっている。

しかし厳密に「どうして人を殺してはいけないのか?」と言う問いに対して、「厳密に、完全に」答えられる人が一体何人いるのだろうか?

 

 

一番多い回答としては

「私は殺されたくないから、人を殺してはいけないと思う」

というような人が多い。

では

「私は殺されてもいいから、私は人を殺す」

という人が現れてきたら、一体どうするのか?

 

 

 

どうして人を殺してはいけないのか?

信号無視してはいけないのか?

どうして悪口を言ってはいけないのか?

どうして学校のろうかは走ってはいけないのか?

どうして挨拶しないといけないのか?

 

 

こういった日常的に当たり前のことも、

厳密に考えてみると、実はとても難しい問題だ。

 

 

 

<曖昧に>、<なんとなく>定義してしまうと

バナッハタルスキーの定理のような

変なパラドックスを起こしてしまうことになる。

 

 

ご注意されたし。

 

 

【詩】御心

 

【御心】

 

 

一迅の風すらも

神様の御心がなくて

吹くだろうか

創造主の許可なしには

小さな石一つでも

転がることすら

できない

 

 

ああ、御心の風が過ぎ

御心の波は騒ぎ立ち

御心の花が揺れる

 

 

その全てを貫く

神様の愛と創造の雷(いかずち)によって

全世界は聖霊に満たされ

ゆっくりと歯車が回るように

回り、回る

 

 

御心のままに

今日もこの地球(ほし)は回る

 

 

<私>という

御心をのせて

 

 

2009/02/14

 

 

「高校生の時に見たニュース」と10年後

 

自分は小中高の時の記憶があまりない。

(大学もあまり…)(;´・ω・)

そんな自分でもかなりはっきり覚えている記憶がある。

 

 

 

 

ニュース、殺人事件について

 

高校1~2年の時、夕方家でテレビを見ていた。

その時夕方のニュースをやっていて、内容は「息子が母親を殺した事件」だった。

(もしかしたら逆だったかもしれないが)

 

 

正直、よくあるニュースと言えばよくあるニュースだ。

しかし当時の自分は、そこで立ち止まって考えた。

「こういうことが起こるのは、普通じゃないよな…」( ゚Д゚)

 

 

実際こういうニュースは毎日のように流れてくるし、ニュースにならないものもいれたら、日本で毎日のように起こっているのかもしれない。

ちょっと調べてみると、

日本では毎年1年間に大体1000件前後の殺人事件が起こっている。

つまり大体1日に2~3人の殺人事件があるということになる。

 

 

毎日のように見るから、感覚が麻痺している部分があるが、

実際よくよく考えてみると、普通のことではない!Σ(・□・;)

 

 

 

息子が母親を殺すとか、親が子供を殺すとか、友達を殺すとか、正常な感覚で見るならば、普通の出来事ではない!!

たくさんニュースで見るし、実際ニュースで見るとしても、「その殺人現場を見る訳ではなく、ただ言葉として、客観的事実として、結果だけを聞く」から、そんなに実感もわかない。

「ああ、またか…」と思うだけだ。

「そんな人もいるんだなー」くらい。

 

 

 

しかしこの時はなぜか、瞬間(?)正常な感覚に戻ったようだ。

そこから考えてみた。

「こういう悲しい事件は一体どうやったら無くなるのだろうか?」

 

 

 

 

高校生なりの結論

 

高校生当時、夕方のニュースを見ながら多分3~5分くらい考えたと思う。

そこで出した当時の結論は、

「これは、政治や経済、教育、法律などで解決できる問題ではない。

生きている人全員(日本限定なら日本人全員)本当に変わらないと、こういう事件は無くならない」

だった。

(あくまで当時の高校生レベルの考えだが)

 

 

例えば法律で「殺人を犯したら無条件死刑」などと、法をもっと厳しくしても、

殺人件数は減るとは思うが、実際無くなりはしないだろうと思った。

 

 

教育分野でも「人を殺してはいけません」などとは当然教えている。

(むしろ当然過ぎて教えていない??)

そのこと自体は誰でも知っている。

しかし実際人は人を殺している。

教育分野をどうこうもできないだろうと思った。

 

 

同じような理由で、政治的にも簡潔できる問題ではないだろうと思った。

もしできるのならば、もうとっくに解決されているはずだと。

 

 

大体こういう感じの思考を経て、得た結論が上の内容で、

「日本人全員が、本当の意味で変化しないと、こういう事件は無くならないだろう」

だった。

 

 

そして、そこまで考えた末、

高校生の時に、最終的に出した結論がこれ。

 

 

「うん、だから自分にできることは無い!」(´・ω・`)

 

 

ここで思考は終了。。。

 

 

 

 

あれから10年以上経ってみて…

 

 

高校生当時の自分が考えた時、

「自分が日本人全員変えるとか無理。だから自分にできることはない。だからこのことはこれ以上考える意味なし。」

というのが最終的結論だった。

ある意味<順当な><普通な>結論だとは思う。

今思えば、(自分は割と正義感は強い方だったので)「自分にできることは無い」と結論づけることで、「目の前の現実に対する責任から逃げる心理」があったように思う。

 

 

 

しかしあれから10年以上が経った。

<当時の自分>と<今の自分>は異なる。

今は先生に出会ったし、御言葉に出会ったし、神様についても知るようになった。

 

 

 

その上である日、高校生時代のこの時のことを思い出した。

 

 

「ああ、あの当時は【自分にできることは無い】と結論づけて終わったけれど、

今は自分にできることがあるな。

この御言葉を伝えればいいんだ。

自分が直接伝えられる人は少ないかもしれないけれど、

これから続けて御言葉が広がっていくだろう。

そうして、一人ひとりが本当に御言葉によって変化し、神様を愛と真理を知るようになって変化していくだろう。

そうしたらいつか、日本全部を覆う時も来るだろう」

 

 

こう思っている自分がいた。

 

 

「自分が日本を変えられる!」という大それた考えではないが、

御言葉を伝えることは、その方向へ進む一歩であることは確実だと悟るようになったという話だ。

 

 

 

10年以上の月日が流れて、<自分の考え>が変化していることに気が付いた。

 

 

陶磁器も、最初は「土の器」だが、素焼きして、本焼きすれば「陶磁器」になる。

 

 

 

高校生の時の自分は、もういない。