「な、なに??一体どうやって??」@GU

 

つい先日の出来事。

それほど教訓的な内容でもないが、面白かったので書いてみる。笑

(^◇^)

 

 

○Uにて

 

ファーストリテイリング系列の「○U」で買い物をしていた時のこと。

レジに行ってみると、なんと「セルフレジ」なるものがあった。

それが以下。

 

 

 

「セルフレジ」だけならそれほど驚くことではないが、興味を引いたのは商品の読み取り方。

下の段の四角い空間に、買いたい商品をとにかく全部入れる。(ハンガーは外す)

「え?これでどうやって商品を読み取るの??」と思いながら、とにかく指示通りに全部入れた。

中の空間を見てみたが、ただ白い壁があるだけだった。

(写真では見えないが、天井にも何もついていない)

…そして扉を閉めるだけ。

すると上の画面に、入れた商品の目録が表示された!!

しかも一瞬で!

 

 

 

…な、なに!Σ(・□・;)

…一体どうやって!??Σ(・□・;)

 

 

 

 

ここで完全に理系と文系に分かれるが、

 

【文系の反応】

「わー、すごい!便利!」(^◇^)

 

【理系の反応】

「なに!?一体どういう仕組みになっているんだ!??」Σ(・□・;)

 

 

自分は完全に後者の反応。笑

みなさんはどちらだろうか?

 

 

 

調べてみると…

 

こういうのを放っておけないタイプなので、その場で少し考える。( ˘•ω•˘ )

このように「なんでだろう?どうなっているんだろう?」と考えることは大事なことだと思っている。

体質になると、すでに趣味だが。笑

(そういえば先生も壁を登るバッタの足を観察していたなと思う)

 

 

最初、商品を入れる段階で

「どうやってタグのバーコードを読み取るんだろう?

入れた後ワサワサ動かすのか?

そんな非効率的なことするかな?」

とか考えながら入れていたが、

あのスピーディーな読み取りっぷりを見るに、そうではないらしい。

 

 

10秒ほど考えて、もう可能性としては「磁気」しかないという結論に至る。

磁気を読みとるなら、多少間に障害物があっても大丈夫だ。

それで商品についているタグを見てみた。

よーく見てみると、ものすごく薄い黒いものが入っている。

最初見ると「裏側に印刷されているものが透けて見えているのかな」と思うが、「磁気に違いない」と思って探していたので気が付いた。

タグの表面は以下のようになっている。

 

 

これを明かりに透かして見ると以下の写真。

 

 

 

中に「ナスカの地上絵みたいな黒いもの」が入っているのが見える。

裏面の絵が透けているのではない。

 

 

 

「あー、この磁気の形で商品を読み取るんだな。

と自己解決して、満足。(‘ω’)ノ

タグが若干コスト高になるはずだが、それを上回る人件費削減になるとの経営側の判断なのだろう。

 

 

「なるほどなー。面白いアイデアだなー」と思いながら、店を後にする。

 

 

 

GUショップのセルフレジの前で、

ちょっと立ち止まって何かを考えていたり、

タグを注視している人がいたら、

99%その人は【理系の人】だと思って間違いない。

 

 

 

もし「どうやって読み取っているんだろう?」というような顔をしていたら、

是非声をかけて、教えてあげて頂きたい。

 

 

 

 

 

「半径1の球」を分解して、再び組み立てて「半径2の球」を作れるか?

 

日常で数学の話は<全く>しないので、ブログには書いてみる。笑

 

 

バナッハ・タルスキーの定理

 

タイトルの通り、

Q.「半径1の球」を分解して、再び組み立てて「半径2の球」を作れるか?(´・ω・`)

と問われたら、何と答えるだろうか?

 

 

 

「何馬鹿なこと言ってんの?できる訳ないでしょ?」と言われると思うが、

実は以下のような数学の定理がある。

(厳密性はおいておいて、すごく簡単に書いてみた)

 

 

 

 

 

数学嫌いで拒否反応が起こりそうな人のために、要するに文章で言うと、

「半径1の球をm個に分解する。半径2の球もm個に分解する。

そしてそれぞれ分解したm個が、それぞれ全部合同になっている」

という話。

 

 

これはつまり

「半径1の球」を分解して、再び組み立てて「半径2の球」を作れる

ということを意味している。

 

 

もっと極端にするなら

「サッカーボールを分解して、再び組み立てて、地球にできる」

ということを意味している。

 

 

これは「バナッハタルスキーの定理」と言って、数学的にも証明されている定理だ。

興味ある方はネットで調べてもらえればすぐに出てくる。

 

 

 

 

どういうこと??

 

もちろん実際問題としてそんなことは不可能だ。( ゚Д゚)

 

 

しかしこの定理自体は数学的に正しい。(´・ω・`)

 

 

どこが問題なのかというと、

「半径1の球をm個に分解した一個一個の成分X1,…,Xm」たちだ。

m個という有限な個数だが、実際

「X1,…,Xmたちには体積を定義できない」

ということ。

 

 

つまり体積を定義できるようなかたちで、半径1の球をうまく分解して、半径2の球にすることはできないということ。

 

 

実際にどういう成分になるのかはわからないが、ものすごく変な形になる。

(形というよりは、恐らくすごく稠密なスカスカの集合みたいになる)

 

 

 

 

考えてみるべき点

 

この定理から考えてみるべき点はいろいろあるが、その中の一つとしては

 

「体積」という日常では当たり前の概念も、厳密に定義しようとしたら難しい

ということ。

 

 

もちろん日常生活では「全く」困ることはないが、

本当の意味で厳密性を追求しようとすると、簡単な概念ではないし、

曖昧に、適当に「こんな感じっしょ」(‘ω’)ノ と定義してしまうと

このようなパラドックス的なこともたくさん起こってくる。

 

 

 

実は私たちはこういうような「あいまいな定義」をたくさんして生きている。( ˘•ω•˘ )

 

 

 

たとえば「人を殺してはいけない」ということ自体は、

①法律で定められているし

②良心的にもダメそうだから

だめそうだということはわかっている。

しかし厳密に「どうして人を殺してはいけないのか?」と言う問いに対して、「厳密に、完全に」答えられる人が一体何人いるのだろうか?

 

 

一番多い回答としては

「私は殺されたくないから、人を殺してはいけないと思う」

というような人が多い。

では

「私は殺されてもいいから、私は人を殺す」

という人が現れてきたら、一体どうするのか?

 

 

 

どうして人を殺してはいけないのか?

信号無視してはいけないのか?

どうして悪口を言ってはいけないのか?

どうして学校のろうかは走ってはいけないのか?

どうして挨拶しないといけないのか?

 

 

こういった日常的に当たり前のことも、

厳密に考えてみると、実はとても難しい問題だ。

 

 

 

<曖昧に>、<なんとなく>定義してしまうと

バナッハタルスキーの定理のような

変なパラドックスを起こしてしまうことになる。

 

 

ご注意されたし。

 

 

矛盾はなぜいけないのか?

 

人間なのでみんな大なり小なり「矛盾、短所」はあるものだ。

鄭明析先生の御言葉を聞いていると、先生はいつも「矛盾を直しなさい」とおっしゃる。

神様から見た矛盾を直したいと、私も切に思う。

 

 

 

 

 

しかし素朴な疑問、、、

「なぜ矛盾はいけないのか?」(´・ω・`)

 

 

 

 

 

中には「別に自分の矛盾あってもいいじゃん!」という人もいるだろう。

「ありのままの自分でいいんだ」的な話はある。

「矛盾はなぜいけないのか?」について、

「…なんかいけない気するじゃん!」という感じの回答ではない回答をしたい。

 

 

まずこの「矛盾」という言葉には大きく二通りの意味があるように思う。

〇性格的な矛盾 (怒りっぽいとか、残酷だとか)

〇論理的な矛盾 (1+1=3とか)

 

 

もちろん考えたいのは「性格的な矛盾」だが、

一旦今日はこれをちょっと別角度、論理学の観点から見てみようと思う。

(はい、そこの文系の人逃げない!)

 

 

 

 

論理学の観点から見る「なぜ矛盾はいけないのか?」

 

難しい話はないので大丈夫。

 

 

まず「矛盾」は論理的に、

ある命題Aに対して、「Aも¬Aも真」と表現できる。

(「¬A」というのは「Aではない」)

 

 

だから「Aも¬Aも真」というのは、

例えば「太郎君は男であり、男ではない」みたいな感じ。(どっちやねん!)

 

 

「Aかつ¬Aが真」だとする。

任意の命題Bをもってきて

Aが真なので「AまたはBは真」だ。

(Aが真なので、AまたはBはどちらかが真だ)

 

 

でも一方で「¬Aは真」なので、

「AまたはBは真」と「¬Aは真」という二つから

「Bは真」という結論が出てくる。

 

 

Bは任意の命題だったので、結局「任意の命題Bは真」という結論が得られる。

 

 

 

 

結局何が起こったかというと、、、

「ある一つの命題Aに対して、Aも¬Aも真だとすると、その論理体系から出てくる命題は全て真になる」

別の表現では

「一つでも矛盾を認めると、その論理体系から出てくる命題は全て真になる」

ということ。

 

 

これを平たく表現するなら

「何かを考える時に、一つでも矛盾を認めると、結局全部認めることになる」

ということ。

そういう論理体系は考える意味がない。

だから論理学的にも矛盾を認めるわけにはいかないということになる

 

 

 

私たちの性格的な矛盾はどうか?

 

 

これは論理学の世界の話だが、私たちの性格的な矛盾、行ない矛盾も同じなのかなと思う。

 

 

自分の中の矛盾を「これは矛盾じゃない!認める!」というスタンスで生きていくと、

自分の全て、もしくは相手の全てを認めることになる。

「肯定的」と言えば聞こえはいいが、そうしたら戦争も殺人も犯罪も悪口も

「全部いいんだ!」(‘Д’)

と認めることになる。

善も悪もなくなり、犯罪という概念がなくなる。

「人を殺しても、何をしてもOK」な世界になる。

少なくとも、私はそういう世界では生きたくないなと思う。

 

 

 

よく「ありのままのあなたでいい」という言葉がある。

これは

「今のあなたのままで変化しなくてもいいよ」

という言葉ではない。

 

 

そうではなく、

「今現在のできない自分、矛盾のある自分をありのまま受け入れて、

そこで落胆しないで、

これから努力して直していけばいいじゃん!」

という前向きな言葉だと思う。

 

 

 

神様は人間を最初から完全には創造なさらなかったけれども、

「そのままでいいよ」とはおっしゃっておらず、

「うめよ、ふえよ、地を従わせよ」と祝福して下さった。

このうち「うめよ」の祝福はまさに「成長(生育)の祝福」だ。

 

 

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 ~創世記1章27節

 

 

そしてその「成長の過程の中で、私ともっと愛を成そう」とおっしゃっている。

 

 

確かに最初から完全だったら、

「神様と共に何かを成し遂げる喜び」もない。

 

 

 

恋人が嫌うなら、自分の性格も直すように、

自分の矛盾もまた、

愛する神様と共に直し、

その過程を経緯として、

残していきたい。