矛盾はなぜいけないのか?

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人間なのでみんな大なり小なり「矛盾、短所」はあるものだ。

鄭明析先生の御言葉を聞いていると、先生はいつも「矛盾を直しなさい」とおっしゃる。

神様から見た矛盾を直したいと、私も切に思う。

 

 

 

 

 

しかし素朴な疑問、、、

「なぜ矛盾はいけないのか?」(´・ω・`)

 

 

 

 

 

中には「別に自分の矛盾あってもいいじゃん!」という人もいるだろう。

「ありのままの自分でいいんだ」的な話はある。

「矛盾はなぜいけないのか?」について、

「…なんかいけない気するじゃん!」という感じの回答ではない回答をしたい。

 

 

まずこの「矛盾」という言葉には大きく二通りの意味があるように思う。

〇性格的な矛盾 (怒りっぽいとか、残酷だとか)

〇論理的な矛盾 (1+1=3とか)

 

 

もちろん考えたいのは「性格的な矛盾」だが、

一旦今日はこれをちょっと別角度、論理学の観点から見てみようと思う。

(はい、そこの文系の人逃げない!)

 

 

 

 

論理学の観点から見る「なぜ矛盾はいけないのか?」

 

難しい話はないので大丈夫。

 

 

まず「矛盾」は論理的に、

ある命題Aに対して、「Aも¬Aも真」と表現できる。

(「¬A」というのは「Aではない」)

 

 

だから「Aも¬Aも真」というのは、

例えば「太郎君は男であり、男ではない」みたいな感じ。(どっちやねん!)

 

 

「Aかつ¬Aが真」だとする。

任意の命題Bをもってきて

Aが真なので「AまたはBは真」だ。

(Aが真なので、AまたはBはどちらかが真だ)

 

 

でも一方で「¬Aは真」なので、

「AまたはBは真」と「¬Aは真」という二つから

「Bは真」という結論が出てくる。

 

 

Bは任意の命題だったので、結局「任意の命題Bは真」という結論が得られる。

 

 

 

 

結局何が起こったかというと、、、

「ある一つの命題Aに対して、Aも¬Aも真だとすると、その論理体系から出てくる命題は全て真になる」

別の表現では

「一つでも矛盾を認めると、その論理体系から出てくる命題は全て真になる」

ということ。

 

 

これを平たく表現するなら

「何かを考える時に、一つでも矛盾を認めると、結局全部認めることになる」

ということ。

そういう論理体系は考える意味がない。

だから論理学的にも矛盾を認めるわけにはいかないということになる

 

 

 

私たちの性格的な矛盾はどうか?

 

 

これは論理学の世界の話だが、私たちの性格的な矛盾、行ない矛盾も同じなのかなと思う。

 

 

自分の中の矛盾を「これは矛盾じゃない!認める!」というスタンスで生きていくと、

自分の全て、もしくは相手の全てを認めることになる。

「肯定的」と言えば聞こえはいいが、そうしたら戦争も殺人も犯罪も悪口も

「全部いいんだ!」(‘Д’)

と認めることになる。

善も悪もなくなり、犯罪という概念がなくなる。

「人を殺しても、何をしてもOK」な世界になる。

少なくとも、私はそういう世界では生きたくないなと思う。

 

 

 

よく「ありのままのあなたでいい」という言葉がある。

これは

「今のあなたのままで変化しなくてもいいよ」

という言葉ではない。

 

 

そうではなく、

「今現在のできない自分、矛盾のある自分をありのまま受け入れて、

そこで落胆しないで、

これから努力して直していけばいいじゃん!」

という前向きな言葉だと思う。

 

 

 

神様は人間を最初から完全には創造なさらなかったけれども、

「そのままでいいよ」とはおっしゃっておらず、

「うめよ、ふえよ、地を従わせよ」と祝福して下さった。

このうち「うめよ」の祝福はまさに「成長(生育)の祝福」だ。

 

 

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 ~創世記1章27節

 

 

そしてその「成長の過程の中で、私ともっと愛を成そう」とおっしゃっている。

 

 

確かに最初から完全だったら、

「神様と共に何かを成し遂げる喜び」もない。

 

 

 

恋人が嫌うなら、自分の性格も直すように、

自分の矛盾もまた、

愛する神様と共に直し、

その過程を経緯として、

残していきたい。

 

 

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